2013年4月11日木曜日

廃いゆー子、生須芳英の高円寺駅前LIVE


廃いゆー子、生須芳英で高円寺駅前からLIVEを行いました。
撮影は若林わかめ様!

画像は廃いゆー子過去LIVEから

皆さま働いていて超尊大偉大です!ヾ(✿❛◡❛ฺฺ)ノ(。◕ฺ‿ฺ◕ฺ。)
って思っております!!!!!(❀╹◡╹)ノ゙❀~
本当に思っております!!(✿ฺ◡ฺ‿ฺ◡ฺ)(✿ฺ◡ฺ‿ฺ◡ฺ)

皆様が私達の話などは聞きたく無いと思っているのは重々承知しています!!(人・㉨・)♡ (✪ฺܫ✪ฺ)    
私たちは通り魔的な所があります。それは社会の外部だからです。ですから、皆様私たちのことなど見たくもありませんし、聞きたくも無いはずです。


良き完璧な時代があったという話は嘘です。神話です。
時代、世代、社会に不穏分子が生きていないなんて事はありません!ヾ(✿❛◡❛ฺฺ)ノ
ですから皆さま、ひとつの社会があれば、その社会の外部があるはずです!!(❀ฺ◕ฺω◕ฺ)(✿ฺ-ω-)(❀ฺ◕ฺω◕ฺ)(✿ฺ-ω-)

というわけで、人間のふりをしていますけれど、実は社会の外部を生き、精神的に亀裂は入りまくりのてめえらを私は尊敬しますけれど、その外部の存在を見せてやろう、
今回のLIVEも人間やめようよ計画の一環です。

今回のLIVE自体の良し悪しがどうなのかという事はあなたがたエタヒニン共で判断してくだされば!!!と思います!!



"社会"って冗談やジョークじゃないです!!
私たちは途中通行人に殴られそうになりましたし、観衆からの通報も多分ありました!
社会なんてものは無い、幻想です、という旨の事をつぶやく方っていらっしゃいますけれど、その事はもう、
今回の動画を見てくだれば、社会は暴力装置として確固たる檻として、存在していると確信していただけるに違いないと思います!!(❀ฺ◕ฺω◕ฺ)
今回のLIVEで示せた事実は、その社会の檻の外部があるという事です

ではでは、日本の私たちのような人種の将来のために、
高円寺ライブ動画見てください!
!!ヾ(✿❛◡❛ฺฺ)ノ


以下、ノイズミュージックの雄、廃いゆー子と音響詩の雄、生須芳英の音源の紹介です。





若林わかめ様、写真と小説のWEBサイト「わかめいろのえのぐ」



廃いゆー子


 
 生須芳英
若林わかめ

2013年4月10日水曜日

純粋さ/差異2分と重層性/重層化の可能な条件

フッサールの哲学が主観性と超越論的主観の2種類でなっている事。
プラトン的な哲学が、イデア界の光と現実という影の2重性で成立している事。

この二つは純粋化されているからこそ、可能ではないだろうか。
純粋化はフッサール的にいえば、不純なものを集合から除く事。

実際問題、純粋さへの思考は人間社会特有の物であり、その理念は優れている。
理念性とはなにか。
意味論的な構造。
意味論は最後にすべてを止めた所で成立する。
よって、それは〜〜だったのだ/(ケリ)。
という構造が意味である。

フッサールの哲学は根源性と理念性の2重がもたらしているのだ。
どこでも2重性である。

狂気とは、その場の即物性である。ここでは、〜なのだ。
集合の純粋化の記述は、精度のとろい集合概念から、それらを2分する概念を置き、そこから2分、2分、2分と分けていくと確実な純粋化が可能である。
総合性はそれぞれの純粋さの多様な重なりにある。

2013年4月8日月曜日

✵ฺ✶ฺ✸ฺ✹ฺイングロリアスバスターズの生須おもしろ映画評 ~キチガイ男の子映画を見る~✺ฺ✵ฺ✶ฺ✸ฺ ✹ฺ✺ฺ




イングロリアスバスターズの生須おもしろ映画評 ~キチガイ男の子映画を見る~

2009年公開のアメリカの戦争映画『イングロリアス・バスターズ』を見ました!()
監督・脚本はクエンティン・タランティーノ監督、
出演はクリストフ・ヴァルツ、メラニー・ロラン、そしてブラッド・ピットさん!

まさか米アカデミー賞脚本賞を受賞したクエンティン・タランティーノ監督のような相当に知的で映画的教養に満ちた監督の作品が、キチガイ第5階級で21歳の貧乏な生須にわかるのですか?と思われるでしょうけれど、株式会社ゲオでは、映画ビデオが80円レンタルで下層の若者にも見れます。
わかるわからないのご指摘は脇に置いておくとしても、そんな現代文明にびっくり!ではないですか。

人類史って700万年程度らしいですけれど、皆さんは教養もあって日本に君臨するので、700万年の歴史的蓄積のなかで、このかけがえのない生涯をENJOYする法を知ってらっしゃるんでしょうね、生須は馬鹿なので露程にそうした方法を知りません。もしよければ今度お酒を飲みながらでも、苦悶の生須にそんな方法をぜひ教えてくださいね。(╹◡╹)

しかしながら、生須もキチガイながらにすっごい気持よくって楽しい事って知っていますよ!
突然ですがキチガイ生須のエクスタシーランキング発表、皆様にもお裾分け!
,。・:*: 1:*:・゜『哲学者フッサール、主観性と超越論的主観をわける!』
,。・:*: 2:*:・゜『精神分析学者ラカン、想像界と象徴界をわける!』
,。・:*: 3:*:・゜『社会運動フェミニズム、生物学的性とジェンダーをわける!』

頭の悪いランキングだと、思われますよね!あはっ!
フッサール、ラカンのような学者様方のこうした厳密に分割するという仕事には、反社会性のエクスタシーがあります。皆様感じませんか。

そんな、キチガイ生須の21年の生涯の蓄積と霊感から言いますけれど、
思考にはふたつの類型があるはずです!
・だいたい-不純志向、まとも社会人型。
・厳密-純粋志向、キチガイ型。

キチガイ生須のテーゼは、「人類がある事象をクリアに分割する事は人類的に禁止されている。」という事です。
実は驚きな事ですが、法律的、人間共同体的には物事をクリアカットに認識するというのは禁止されているんですよ。
うっそー(ωω)

マルセルモースという人がおりましたが、あの人も変わった学者で、法律の基礎というものを研究しました。
その際、アフリカのマオリ族という民族を研究します。マオリ族の交換自体は共同体の構造そのものです。
そして、共同体の構造たる法律、道徳とは実は「交換をやめてはならない」という事の言い換えであるという事を発見します。(〃・)

前近代的なアルジェリア社会では、物事を数える事の禁止という事を発見がありました。これはつまり資本主義的契約のような関係をクリアにする事を禁止とつながっています。アルジェリアのような社会様態では、人同士の交換の頻度をクリアカットにされた関係は阻害するからです、そうした事を主張したのは1930年生まれのフランスの社会学者ブルデューでした。
それがが何を意味するのかというと、外界への関係をクリアにする事は交換を促進しませんという事です。
というのは、交換というのは、「あれあげすぎたっけ、いやもらいすぎていたっけ」という感情のはばがもっとも交換を促進するからです。

この事が、実は完全な鏡像段階をするのを社会が禁止するのと同じであるというのは生須の狂気を越えて皆さんも同意してくださるはずです。(✾♛)
つまり些細な事でなりっきてしまう子供も社会は排除します。
向かい合うバカップルを馬鹿だなと笑うのは、あれは完全に自他の区別を排すので、交換不可能になるので、人々は笑います。
と言う事で、根源的に交換を阻止するものを禁止する法律的なライブラリーの中に厳密、純粋、クリアカットの禁止が暗に想定されていてもおかしくありません。
ですから、人倫社会では厳密さ、純粋さへの要求は禁止されているはずです!生須はそう主張します。
この事けっこう面白く無いですか?()ノャァャァ

では、具体的な所に落とし込んで、物語の構造的な分析話をします!
紀元前に出家 成道 教団 伝道 入滅をした仏陀。またそれに似た生涯をおくったガリラヤのイエス。人類に神々から火を持ち帰ったプロメテウスには一つの構造が共通しています。
(分離・旅立ち)→(通過儀礼)→(帰還)。というのが純粋な構造です。
これは英雄物語の基本構造です。
この構造は歴史的にいくつかの流れに分岐します。皆さんもご存知であるはずです。(UU)
少女漫画型の母型(不遇な出会い)(ふたりに訪れる危機)(相思相愛)、
神への挑戦の母型(現世での栄誉)(奢りから神への挑戦)(敗退と罰)、などの物語構造を人類は発見しています。

ここで示したように実は物語の本質的なヴァリエーション自体の数は有限で存在しています。その中から人類自体が選んで創作しています。ヾ(✿❛)
これまで演劇、文芸では、そうした物語を選びかたというものは一つの物語を選んでまとめるという形態のものが多かったのでありました!

必然的な筋として、悲劇が観客の心に怖れと憐れみを呼び起こし感情を浄化する効果をカタルシスと言ったのは古代の大アリストテレスでしたが、こうしたカタルシス型の単一映画がジョージ・ルーカスの1977年公開の『スターウォーズ』でした。

近代までの物語の構造ってこうした単一カタルシスものが多いです。
その分、王の持つ装飾具の豪奢にこだわるとか、俳優をより優美にするとかそんなこだわりばっかりで私なんかげろげろ。みなさん、そんな生須を笑うのでは。(。→ˇ艸←)

そういう意味でイングロリアスバスターズは複数の物語母型を重ねていますので新しくってぴかぴかです。
この重ねるという事自体は、厳密さと純粋さというふたつの条件をクリアしなくてはなりません。
そしてその重ねられた母型の純度はスターウォーズのそれよりも厳密で純度の高いものです。
という事は....、厳密-純粋志向は狂気!が生須の主張なのでもちろん、この2009年公開、タランティーノ監督のイングロリアスバスターズにも狂気があります。
親近感(pq`)

この映画はスターウォーズに代表されるような、吉本隆明的な『だいたいでいいじゃない』と同質の模糊曖昧の単一秩序映画ではないという事が私の切なる主張であります。
「あいまいさ」という社会的通俗性、一般性を持った映画でもないという事であります。()
純度の高い物語母型を重ねたこの映画は一つの厳密-純粋志向、キチガイ型の映画です。そういう意味でとっても現代的で楽しいこと請け合いなんですよ。(╹◡╹)

社会を跋扈する皆様がた、ぜひぜひ!()

2013年3月5日火曜日

見えるという事を組み立てるという事はどういう事であるのでしょうかという、基礎的な実験です。


「平静な美しさがあります。」

ベルナールや、クラシック期のギリシャ美術、ゴッホ絵画の悪いもの。

それらを平面上で並列させたとき、この絵画は平静な美しさがあると静かな美的感動を与えるのでしょう。

指摘されなければ、気付かないことというものはあるように思われます。
例えば、ある男Aが「それは机だ。」と発話するとき、
その机を見ている面が一面であるにもかかわらず、その机を支えている4本の脚の裏側まで想定していることになります。少なくとも論理的にはそうです。

この想定していること自体を凝視することには、価値があるはずだと思います。
なぜでしょうか。私たちが「それは机だ。」と言うとき、
絶対に4本の脚の裏のない机など絶対に想像していないのでありますでしょうから。

私たちが4本の脚の裏側が見えていないにもかかわらず、その脚の裏側があるような前提のもとで、「それは机だ。」という発話をし得るという事実は、ひとつの謎であります。

この謎の前にしながら、ここでは、発話の前に、私たちはひとつの視覚を構成しているという仮説を立てます。

それを仮に『視覚構成』とここでは呼びます。

私が文章の初めで、「平静な美しさがある」とセザンヌの絵画を評したこと。
ここで、こうした発話を可能にさせる前提は、ベルナールや、クラシック期のギリシャ美術、ゴッホ絵画の悪いもの、を並列させて視覚を構成させているという事であります。

ひとつの視覚構成があるという事は、別の視覚構成もあるはずです。

縦のモデルを想定します。
セザンヌを頂点に。
その次にモネを。
その次に、シスレーを。
さきほどやったものとは、別の視覚構成。さきほどは並列でしたが、今度は縦であります。




「セザンヌの音楽的、構成的明朗さよ。」
最初と別の視覚構成で浮かぶ直感はこの文言です。
少し恥ずかしいですが。

しかし、モネはいいと思いました。新しい気が致します。

机の裏側というものがあるように、視覚構成は幾何学的志向性によって構成されます。
志向性の幾何学的構成は、古典思想書が示すように、メタファーでもokです。
たとえば、銅貨の裏表。

このアイデアで次回は、視覚構成の問題を追いかけます。

結論です。基礎的な事実ですが、今日示し得た事実は、視覚構成によって、感想が変わるという事でした。

今日の探求、おわりであります。


2013年2月22日金曜日

「否定」をひっくり返すと自分が他人の事をどう思っているのか知れるのではないか、という話。


半年前の私は、フロイトのテキスト『否定』を知っていました。
20世紀の精神分析医のフロイトは、精神分析医としての臨床経験から、否定されたとき無意識が噴出するのを知ります。
フロイトが知った、否定の経験とは、こうです。
女性の神経病患者が、「私は父を愛していない!あなた(フロイト)はわたしを侮辱している!」と言うとき、そこで性的感情が否定されているにもかかわらず、父への性的な執着がみられると言う事を臨床経験を経たフロイトは知ります。
それを知ったフロイトは、否定という形式を通して無意識が噴出するのだ、というテーゼを唱えます。
それを読んだ当時の私は、もしストーカーの立場になって考えれば、相手が自分を求めていると勘違いしてしまって危険な話だなあと思いました。

 フロイトの書かれた『否定』の半世紀後、このテキストを精神分析医ラカンは、非凡なテキストだと評した上で、このテキストを発展させます。
患者が「私はAを憎んでいる。」と言うとき、患者は「私はAを愛している」という事だ、とラカンはフロイトを継いで言います。
そして、続けてラカンはこれはこの文中の「私」は反語で「A」に置き換えられるべきなのだ、と言います。
よって、「私はAを憎んでいる。」と言う文章は「Aは私を愛している」という事の無意識的否定の噴出なのであるとラカンは言います。
今の私はなんだか、複雑な処理ですげえなあと思います。
そして、これを読んだ私は、自己意識の事を考えました。
フロイトが書いていますが、精神分析についての知識を他人に伝える最上の方法は自分にメスをいれてそれを他人に見せるという事であります。ですので私は自分の事に絡めて書く事に致します。
私、今ですと思うのですけれど、例えば自分でよくわからない行動をしているとき、意識には触れられない部分ってあるように思います。

 どういう事かと言いますと、例えば、少し前の私は、「私は家族のもとに帰りたく無い」と思い、予備校からの帰路で立ち尽くして、辛い思いをしていました。
けれど、帰りたく無いという意識はその時の私の意識の上で、「私は家族のもとに帰りたく無い」とでるわけではないですか。その時の生須のあくまで”意識”の上で、でてくるわけでありませんでしょうか。

 思想を勉強した私は思います、20世紀にフロイトの指摘した事は、意識にあがってくるものは検閲がかかっている、という事だと思います。


 と言う事は、過去の私が意識の上で思った、「私は家族のもとに帰りたく無い」にも検閲がかかっているのだと思います。
検閲をかいくぐるためにひっくり返しますと、「家族は私を家に置きたがっている」と私が思い込んでいる事になると論理的には思います。
さて、こうして論理的にひっくり返した私は、「なぜ、家族の気持なんかわかった気持になっているのだろう」と思いました。
皆様、人の気持は、けっこうわからないものだと思いませんか?
私自身ですと、ひとの気持は難しいと常々思う系の人でありますので、こう自分が決めつけているようには思えないのであります。
しかし、精神科医ラカンはあなたは家族があなたに執着している事を前提に行動していると言います。
ここに私の実感とラカン学説の齟齬やすれ違いがあります。

 私はこの齟齬を解くかぎは『転移』にあるのだと思います。
『転移』とはつまり子供のときの人間関係が現在の人間関係に再現されていて、つまり、過去と現在はちがうものであるのに、そこに自我の思い込んでいる過去の人間関係が投影されていると思います。
そこにあるのは、ぐちゃぐちゃの投影のカオスです。
私自身は過去から現在への人間関係への感情の転移がどこにあるのか、きちんと見極めて、過去の人間関係と、今の人間関係は違うと分断すると、なんとか気持の整理がつくのではないかと思いました。
すくなくとも論理的には、そうなるように思います。

 私が今日、ここで導出したテーゼはこうなります。
「論理的にひっくり返すと、具体的に転移がどう起きているのか知れる。」
であります。





2013年2月10日日曜日

神/道路

原初のシニフィアンが神への恐れだと。

シニフィアンによって「あなた」という呼びかけと自己同定は構造化されているとか。
まるで、道路みたい。

やんや/いんべん

なにもない。
図式が純粋シニフィアンという形を聞いた。
それから、フッサールずっと読んでる。

2013年2月9日土曜日

歴史/批判

他の形の歴史があったのでは、ないか。
やり直しがきくのでは、ないのか。
それは絶対のものではなく、恣意や偶然が入り込んでいるのではないか。

系譜学的批判はこの形式であります。



2013年2月8日金曜日

わかりあっているよ/わたしたちの次元

自殺しない。

自殺しない。なぜそう言える、未来の事なのに?
この宣言は誰に向けられてもいない。にもかかわらず実行力を持つという事。
まるで非核保有の宣言みたいだ。

地面とグロ画像は同質に見える事。普通はグロ画像は避けられるものなのにね。
これはまるで、〈性〉の視覚性の幕の向こうがわのようだ。

あらゆる機知は言う、お前は私ではない、と。
でも現実は違う。私はあなただ。
このパイの二層性の上がある。情報においては私はわたしたちだ。
なんだかこの文言はあなたに向けられてないようだと君が言う事を想像する事。
でもわたしたちは、わかりあっているよ。





2013年2月3日日曜日

機知/自我と私を結ぶもの

自分でもよくわかっていないけれど、書く。

私の外部にあるべき私がある。
それは他者だ。

そして、他者と私をつなぐものは、どう考えてもイマージュじゃない。
想像的同一化では、ない。

私が他者になる事、なんて笑ってしまってあり得ない。
無い物ねだりの子供みたいだ。

しかし、自我とは他者なのだ。
それは私という生人を引きづる死人なのだ。

その他者と私をつなぐのが、どうしたってイマージュじゃない。
自我と私との空隙を埋めるのはどう考えても他者じゃない。
それは他者と同一化、(イマージュによって!)したと思い込むから自分に騙された!というよくわからない印象をうけるに及ぶのだ。

よくわからない。けれど
他者としての自我と私を結ぶのは明らかに機知だ。

ラカンによれば、シニフィエが鏡像段階を断ち切るのだから。
それは、でも私には向こう岸へのジャンプみたいだ。