私の外部にあるべき私がある。
それは他者だ。
そして、他者と私をつなぐものは、どう考えてもイマージュじゃない。
想像的同一化では、ない。
私が他者になる事、なんて笑ってしまってあり得ない。
無い物ねだりの子供みたいだ。
しかし、自我とは他者なのだ。
それは私という生人を引きづる死人なのだ。
その他者と私をつなぐのが、どうしたってイマージュじゃない。
自我と私との空隙を埋めるのはどう考えても他者じゃない。
それは他者と同一化、(イマージュによって!)したと思い込むから自分に騙された!というよくわからない印象をうけるに及ぶのだ。
よくわからない。けれど
他者としての自我と私を結ぶのは明らかに機知だ。
ラカンによれば、シニフィエが鏡像段階を断ち切るのだから。
それは、でも私には向こう岸へのジャンプみたいだ。
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