フッサールの哲学が主観性と超越論的主観の2種類でなっている事。
プラトン的な哲学が、イデア界の光と現実という影の2重性で成立している事。
この二つは純粋化されているからこそ、可能ではないだろうか。
純粋化はフッサール的にいえば、不純なものを集合から除く事。
実際問題、純粋さへの思考は人間社会特有の物であり、その理念は優れている。
理念性とはなにか。
意味論的な構造。
意味論は最後にすべてを止めた所で成立する。
よって、それは〜〜だったのだ/(ケリ)。
という構造が意味である。
フッサールの哲学は根源性と理念性の2重がもたらしているのだ。
どこでも2重性である。
狂気とは、その場の即物性である。ここでは、〜なのだ。
集合の純粋化の記述は、精度のとろい集合概念から、それらを2分する概念を置き、そこから2分、2分、2分と分けていくと確実な純粋化が可能である。
総合性はそれぞれの純粋さの多様な重なりにある。
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