半年前の私は、フロイトのテキスト『否定』を知っていました。
20世紀の精神分析医のフロイトは、精神分析医としての臨床経験から、否定されたとき無意識が噴出するのを知ります。
フロイトが知った、否定の経験とは、こうです。
女性の神経病患者が、「私は父を愛していない!あなた(フロイト)はわたしを侮辱している!」と言うとき、そこで性的感情が否定されているにもかかわらず、父への性的な執着がみられると言う事を臨床経験を経たフロイトは知ります。
それを知ったフロイトは、否定という形式を通して無意識が噴出するのだ、というテーゼを唱えます。
それを読んだ当時の私は、もしストーカーの立場になって考えれば、相手が自分を求めていると勘違いしてしまって危険な話だなあと思いました。
フロイトの書かれた『否定』の半世紀後、このテキストを精神分析医ラカンは、非凡なテキストだと評した上で、このテキストを発展させます。
患者が「私はAを憎んでいる。」と言うとき、患者は「私はAを愛している」という事だ、とラカンはフロイトを継いで言います。
そして、続けてラカンはこれはこの文中の「私」は反語で「A」に置き換えられるべきなのだ、と言います。
よって、「私はAを憎んでいる。」と言う文章は「Aは私を愛している」という事の無意識的否定の噴出なのであるとラカンは言います。
今の私はなんだか、複雑な処理ですげえなあと思います。
そして、これを読んだ私は、自己意識の事を考えました。
フロイトが書いていますが、精神分析についての知識を他人に伝える最上の方法は自分にメスをいれてそれを他人に見せるという事であります。ですので私は自分の事に絡めて書く事に致します。
フロイトが書いていますが、精神分析についての知識を他人に伝える最上の方法は自分にメスをいれてそれを他人に見せるという事であります。ですので私は自分の事に絡めて書く事に致します。
私、今ですと思うのですけれど、例えば自分でよくわからない行動をしているとき、意識には触れられない部分ってあるように思います。
どういう事かと言いますと、例えば、少し前の私は、「私は家族のもとに帰りたく無い」と思い、予備校からの帰路で立ち尽くして、辛い思いをしていました。
けれど、帰りたく無いという意識はその時の私の意識の上で、「私は家族のもとに帰りたく無い」とでるわけではないですか。その時の生須のあくまで”意識”の上で、でてくるわけでありませんでしょうか。
思想を勉強した私は思います、20世紀にフロイトの指摘した事は、意識にあがってくるものは検閲がかかっている、という事だと思います。
と言う事は、過去の私が意識の上で思った、「私は家族のもとに帰りたく無い」にも検閲がかかっているのだと思います。
検閲をかいくぐるためにひっくり返しますと、「家族は私を家に置きたがっている」と私が思い込んでいる事になると論理的には思います。
さて、こうして論理的にひっくり返した私は、「なぜ、家族の気持なんかわかった気持になっているのだろう」と思いました。
皆様、人の気持は、けっこうわからないものだと思いませんか?
私自身ですと、ひとの気持は難しいと常々思う系の人でありますので、こう自分が決めつけているようには思えないのであります。
しかし、精神科医ラカンはあなたは家族があなたに執着している事を前提に行動していると言います。
ここに私の実感とラカン学説の齟齬やすれ違いがあります。
私はこの齟齬を解くかぎは『転移』にあるのだと思います。
『転移』とはつまり子供のときの人間関係が現在の人間関係に再現されていて、つまり、過去と現在はちがうものであるのに、そこに自我の思い込んでいる過去の人間関係が投影されていると思います。
そこにあるのは、ぐちゃぐちゃの投影のカオスです。
私自身は過去から現在への人間関係への感情の転移がどこにあるのか、きちんと見極めて、過去の人間関係と、今の人間関係は違うと分断すると、なんとか気持の整理がつくのではないかと思いました。
すくなくとも論理的には、そうなるように思います。
私が今日、ここで導出したテーゼはこうなります。
「論理的にひっくり返すと、具体的に転移がどう起きているのか知れる。」
であります。