2016年1月26日火曜日

インダス文明の交易

「....10cmを越える長さの管玉を作ってなかに穴をあけることと、それから表面を腐食させることでした。そういう技術でつくった紅玉随がインダス文明の主力輸出商品のひとつとなる。それが海路をわたって西に流れていく時間帯というのが紀元前2500年から紀元前2000年の間ぐらいでしょう。」
4大文明インダスp,214








ここで指摘されている事は面白い。
今から4000年前の初期交易の主力は、ひとつ、"希少性"のあるものであったこと。
ふたつ、食物などではなく"硬くて壊れにくいもの"であったこと。
みっつ、"加工されたもの"であったこと。
よっつ、小さく"持ち運びがきくもの"であったこと。

そして、商人が持ち歩いた事、つまり来させるというものではなく赴いて売っていった事という事がある。初期交易は、行商人であった。

「....こうした流通の管理のためには、それらの重さを計る単位を定めておく事が必要条件である。」








単位の成立は、インダス文明からでした。
交易の無い所に単位が発生しないという事は、面白いです。
もし、ジャングルのなかで孤立した村であれば単位は発生しません。あくまで、海をわたった交易という出来事のなかで単位が成立します。そしてその際の主力商品は装身具でした。
この事はじみ深い事実です。つまり、ひとつ、古代文明から人類は美を求め"交易"していた。
ふたつ、商人は海を越えて越境していった。
みっつ、「初めに言葉があった」と聖書が言う場合、そこには言語による秩序を人間がとても必要としたという事実がある。
よっつ、度量衡は、正方形である。公正、厳密という秩序を人間は正方形に求めた。
いつつ、初期装身具は、赤茶色と白色だった。つまり、色の組み立てでは、これが最古の色彩設計なのだろうか。

現代は、4000年経ったため四角形のフォルムに皆飽きているが、文明の秩序のフォルムは正方形なのであると思います。

神話と共に生きる/神話無しに生きる。

神話と共に生きる/神話無しに生きる。

「....根無し草なのであって、過去や先祖の命(つねにわれわれと共に生きている)とも現在の人間社会とも、真の結びつきをもっていない。」
ユング[変容と象徴]P,7

アーティストとして生きようと思うと深くこの問題が出現します。
なぜ、一見してすかすかな笠原恵実子のような表現が出現するのか。表現として根を欠いたものの本質を言い当てています。
笠原恵実子には、美術史への結びつきは無いのです。



























「個人的な葛藤すなわち近親相姦の空想こそオイディプス伝説という圧倒的な力を持つ古代演劇の素材の根本である。」
ユング[変容と象徴p,5]

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こうした、表現の根本にあるのは、【近親相姦の禁止】です。
オイディプス演劇も同時に、【近親相姦の禁止】という前提の上に打ち立てられるのです。

【近親相姦の禁止】を打ち立て、父として抑えつけるという表現がここにはあります。
ギリシャ美術においては、父として汝にくつわをはめるという、いわゆる「ウザさ」があったのです。

笠原恵実子の表現にあるのは、上の図版は博物学系の仕事ですが、博物学は美術の系譜ではないのです。その誤解があると思います。