「平静な美しさがあります。」
ベルナールや、クラシック期のギリシャ美術、ゴッホ絵画の悪いもの。
それらを平面上で並列させたとき、この絵画は平静な美しさがあると静かな美的感動を与えるのでしょう。
指摘されなければ、気付かないことというものはあるように思われます。
例えば、ある男Aが「それは机だ。」と発話するとき、
その机を見ている面が一面であるにもかかわらず、その机を支えている4本の脚の裏側まで想定していることになります。少なくとも論理的にはそうです。
この想定していること自体を凝視することには、価値があるはずだと思います。
なぜでしょうか。私たちが「それは机だ。」と言うとき、
絶対に4本の脚の裏のない机など絶対に想像していないのでありますでしょうから。
私たちが4本の脚の裏側が見えていないにもかかわらず、その脚の裏側があるような前提のもとで、「それは机だ。」という発話をし得るという事実は、ひとつの謎であります。
この謎の前にしながら、ここでは、発話の前に、私たちはひとつの視覚を構成しているという仮説を立てます。
それを仮に『視覚構成』とここでは呼びます。
私が文章の初めで、「平静な美しさがある」とセザンヌの絵画を評したこと。
ここで、こうした発話を可能にさせる前提は、ベルナールや、クラシック期のギリシャ美術、ゴッホ絵画の悪いもの、を並列させて視覚を構成させているという事であります。
ひとつの視覚構成があるという事は、別の視覚構成もあるはずです。
縦のモデルを想定します。
セザンヌを頂点に。
その次にモネを。
その次に、シスレーを。
さきほどやったものとは、別の視覚構成。さきほどは並列でしたが、今度は縦であります。
「セザンヌの音楽的、構成的明朗さよ。」
最初と別の視覚構成で浮かぶ直感はこの文言です。
少し恥ずかしいですが。
しかし、モネはいいと思いました。新しい気が致します。
机の裏側というものがあるように、視覚構成は幾何学的志向性によって構成されます。
志向性の幾何学的構成は、古典思想書が示すように、メタファーでもokです。
たとえば、銅貨の裏表。
このアイデアで次回は、視覚構成の問題を追いかけます。
結論です。基礎的な事実ですが、今日示し得た事実は、視覚構成によって、感想が変わるという事でした。
今日の探求、おわりであります。